言葉の風化と汚染
その中でも特に、持つニュアンスや意味自体が完全に置き換わってしまったり、意味を感覚できる人が減ることによって意味が形骸化(言葉が音と文字のみ残り、本来の意味は誰にも分からない)することがある。
そして、この意味の置換と形骸化によって、心を幸せへと導くことに障りを生む言葉がある。それらの言葉の意味の置換を「汚染」と呼び、形骸化を「風化」と呼ぶ。
汚染された言葉の代表として、「善悪」がある。本来は「働き」であった善悪という言葉は、二極と無関係である。しかし、これが二極から離れずに人々によって解釈され続けた結果、「良い / 悪い」「正しい / 間違い」「褒められるべき / 罰せられるべき」という意味に汚染された。
結果として、善悪を感じるよりも先に二極によって事象の解釈が起こり、心は「裁き」と「責め」の感情によって満ち満ちて、慚愧を感じる余地がなくなった。
この一連の流れは慚愧(ざんき)という「言葉」を風化させた。「慚愧」は風化した言葉の代表例の1つである。現代では慚愧(ざんき)という言葉は政治家の謝罪会見くらいでしか使われなくなっている。
このように、言葉の汚染はそれに関連した言葉を風化させるケースが多い。
「感謝」という言葉自体は一般に知られている点で「慚愧」とは異なるが、本来の意味を感覚できる人は稀有(けう)である。そのため、個々人は空洞と化した「感謝」という言葉に思い想いの意味を込めることになり、感謝が超合金化する。
言葉の風化には、「慚愧」のように言葉の使用自体を減少させていくケースと、「感謝」のように言葉の使用は引き続くものの、空洞と化した意味部分に人によって異なる超合金化されたイメージが詰まるケースがある。
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