縁起と責めと原因

全てのものごとは縁起によって起こる。

縁起とは、簡潔に言えば相互に関連し合い、支え合っているという程度の意味である。どちらかが一方的に支えているという関係性は原則としてない。

これについては、人間の臓器がわかりやすい。心臓が肝臓を生かすと同時に、肝臓もまた心臓を生かしている。どちらが欠けても、他方もまた欠けてしまう。宇宙もまたこのように成り立っている。

この縁起という性質によって、個人による原因の追求は「恣意的」に起こる。(つまり二極に都合よく原因が特定されるということ)

例えば、教師と生徒のある事象について考えてみる。その日の授業で、その生徒は教師の授業をほぼ理解することができなかった。この事象原因は、教師の「指導力」に起因するのだろうか。それとも生徒の「理解力」に起因するのだろうか。

この答えは「ケースによる」ではない。縁起によって起こっているから、起因は「特定できない」というのが答えである。

要は「相性が悪かった」ということで、どちらのせいでもあるとも言えるし、どちらのせいでもないとも言える。つまり、それをどちらが正解かと特定しようとすること自体が原理的に不可能なので、そこに捕まるとジレンマに陥る。

つまり「責める」「原因を特定する」ということは角度によって如何様にもなるということで、これがあらゆる諍(いさか)いや不和の要因となり得る。

原因の特定に解決はない。

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