二極を離れるということ

二極を離れるとは、中道(中庸)に至ることである。

中道は心の在り方である。頭によってバランスを取ることでも、意味を理解することによって心に言い聞かせることでもない。

中道とは、二極の中央ではない。それは中途半端という。

中道には執着がないが、それは無関心によってではない。「どうでも良い」のではなく、「ちょうど良い」のである。この錯誤によって本来意味がズレた言葉の例として「いい加減」や「適当」が挙げられる。ほとんどの人が錯誤しなければ、言葉はズレない。それほどまでに、中道という言葉意味錯誤され続けてきたと言って差し支えない。

中道とは、二極を離れることによって対象をあらゆる角度から観察することが可能になり、それによって時宜に応じた「最適」を見極められる状態である。ただし、頭によってではなく、心によってである。

例えるなら、二極囚われた状態とはONとOFFしかないスイッチで動く照明のようなものである。照らすときはONにするしかなく、体験によって照らさない方が良いと判断されたときにも、反対に振ってOFFにするしかない。

それに対して二極を離れた状態とは、照度のボリュームを自由に調整できる照明のようである。二極を離れると照らすも照らさぬも、その程度も緩急自在となり、機に応じて最適な明るさで対象を照らすことができるようになる。

儒教における「中庸」に「喜怒哀楽の未だこれを発せざる、之を中庸と謂ふ」という言葉があるが、この楽はrefにおけるとは違う。

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