ウソかマコトか

フリートーク

from.

こんばんは、Jayです。

なんとなんと、ブログ更新が9ヶ月ぶり・・・!
過去最高の更新停滞記録です。

しかもその3ヶ月前に「更新頻度あがりますよ」と書いた挙句。笑

私は果たして嘘つきなのでしょうか?

この「問い」に対する私なりの見解は最後に書こうと思います。
何あれ、記事を楽しみにしていた方には心から謝罪です、ごめんなさい。

さて、世の中は嘘と真実が両者溢れています。
それらはないまぜゴチャゴチャ、真偽不明。

増してこの情報社会、嘘に翻弄されることを怖がる人はとても多い。

フェイクニュースなるものが物議を醸していたり、情報のソースに気をつけましょうという新たな(?)風潮が出てきたり・・・

ところが、です。

この嘘を怖がりすぎると、、、
「ある能力」が低下することをご存知ですか?

今日はこの点を記事にしようと思います。

「嘘」とは何か

嘘とは、口に虚(うつろ)と書きます。

口から「実体の無い虚飾」が出るのが
「嘘」ということなのでしょうね。

いつも思いますが、本当に漢字というのはよくできています。

ポイントは「実体がない」という点。

「実体とは何か」

この点がズレると、何が嘘なのかも
変わってきそうじゃないですか?

私が思う解釈ですが、
この「実体」の正体は「心情」です。

つまり心の様相と異なる発言、
これが「嘘」の定義です。

例えば、

「動揺しまくり」なのに「大丈夫です」とか。

では、

「盗んだ」のに「盗んでないです」
と言ったら、これは嘘でしょうか?

私は「嘘」だと思ってます。

なぜなら、盗んだ本人には盗んだ記憶がある。

「盗んだのか?」と問われたら、

そのシーンが心にありありと
浮かぶのが普通じゃないでしょうか。

にも関わらず、

「盗んでないです」

ですから、やっぱり心情とは異なる発言になる。
これは「嘘」に当たりますね。

事実と異なるのが嘘か?

人の記憶に甦るのは、全て過去です。
では、未来に対する嘘はあるのでしょうか。

例えば、何もない更地が目の前にある。

「ここは更地です」

面白みについてはさておき、
これは間違いなく事実でしょう。笑

では、

「ここはショッピングセンターだ」

と大言を放った男がいたとする。

これは嘘でしょうか?

目の前は更地です。ですから、
ショッピングセンターではない。

ですが、彼の「胸中」には、
ありありと浮かんでいるわけです。

人々が列をなし、賑わい、
巨大な様相で彼らを迎える建物が。

つまり心と発言には差異がない。
私はこれを「嘘」とは呼びません。

これは「」です。
夢は、嘘ではない。

しかももっと私の論を進めるなら、

彼にショッピングセンターを
実現させる責務は、微塵もない。

なぜなら、その時の彼には、
その像が見えていたからです。

そして半年後には、逆にもう
全くもって見えないかもしれません。

彼の心はもう、他へと移ろってしまったのです。

心には常に「今」が映る

もしも彼が、もう一切ショッピングセンターを
その更地に対して見出せない状態で、

「ここはショッピングセンターなんだ!」

と言ったとする。

すると、今の彼の心模様とは、
逆に今の発言がズレてしまいます。

むしろこちらの方がよほど「嘘」です。

心情は、常に移ろっています。

なぜなら、常に新しい出会いによって
記憶が更新され、考えが更新され、

その動きに連動し続けるのが心情だからです。

世界は「ウソから出たマコト」でできている

現代は、本当に便利なスマート時代です。
そしてこの今目の前の現実を、

ほんの20年前の人々のうち
一体何人が想像していたでしょうか?

例えばスマートフォン。
例えば、スマートグラス。

今のコンピュータの集積回路が、「原子数個分」という想像を超えるレベルの精妙な単位によって支えられていることを、あなたはご存知ですか?

このちょっと前には想像さえできなかった今は、
「誰かの心に浮かんだ過去」でできています。

当時は、ありませんでした。でも今はある。

それはなぜか?

彼らが、嘘をつかなかったからです。

現実ではないウソを、
でも心には確かに浮かんだ真実を、

世の中に対して懸命に発信し、
心にそのウソを保ち続け、

今を過去の延長線から「捻じ曲げた」からです。

これはまさに、

「ウソから出たマコト」

と言えるのではないでしょうか?

今、目の前にはない。

そこからズレることを恐れ、
そのズレを「嘘」と定義してしまい、

ただただ現実を受け入れていたら、
未来は何も変わりません。

未来は「描ける」ものです。

過去は変わりませんが、

未来は変わるどころか、
まだ決まってないですからね。

「誠実」に囚われすぎない

「誠実であろう」とすることは、
大変に素晴らしいと思います。

ですが、

あまりに「そうあろう」としすぎると、

「嘘に対する過敏さ

が逆に生まれてしまうことがあります。

その最たる例を2つ。

1つが先ほど挙げた、

「今目の前」とのズレへの恐れ

です。

目の前とズレる発信を恐れすぎると、
未来を描くことができなくなります。

そうすると、いずれは環境に翻弄され、
人生の主導権を失っていくでしょう。

私には少し勿体無い生き方に感じます。

2つ目が、

「既に成された発言」とのズレへの恐れ

です。

言ったときが本心だったとすれば、
それは「嘘」ではありません。

「嘘かどうか」は常に、

「今の心模様との対比」によってのみ
判定するようにしましょう。

そうしないと、
あなたは過去の発言にどんどんと縛られていき、

逆に今の心に嘘をつき続け、

そして過去した発言が、いまだに成せていないと
自分を責め続けてしまいます。

「私は嘘つきだ」と。

こんな人生は、とても幸せとは呼べません。

その時の本心であれば、良いのです。
変わっていいのです。

変わったなら、変わったと発信しなければ、
それこそが「嘘」であると私は思います。

これらの「嘘」への恐れが、

あなたの想像力行動力をみるみるうちに
奪っていきます。

さらにその自分に課した誓約は、
他者に対する寛容さを失わせます。

「何大ボラを吹いてるんだろうな」

「またありもしないことを言ってる」

「あいつ言ってることと
 やってることが全然違うぞ」

「口だけの人間にはなりたくないな」

この言葉が、さらにあなた自身に対する
想像力と行動力を奪っていきます。

このように、

嘘を恐れすぎるあまり、
自分自身の能力を低下させてしまう

良かれと思った生き方が
あなた自身を苦しめてしまう

そんな悲劇が、嘘への恐れのうちに
実は潜んでいるのです。

嘘を怖がりすぎない生き方

嘘を怖がりすぎることをやめましょう。

今の心に素直な状態を、
なるべく保てるようにしていきましょう。

そうすればあなたは、もしかしたら将来
とんでもない偉業を成し遂げるかもしれません。

偉業なんて成し遂げずとも、少なくともあなたにとって嘘が減る人生は、とても心地が良いですよ。

これは私が保証します。

ということで、最初の「問い」に対する答え。

「私は嘘つきではない」

あー良かった。

全力で言い訳して、
今日のブログを締めたいと思います。

いやほんとに、更新してなくて
すみませんでした。。。

今日は以上です。
それではまたー!

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